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山岳信仰の遺跡

  • 執筆者の写真: S Mikaze
    S Mikaze
  • 2024年2月25日
  • 読了時間: 9分

更新日:2024年4月27日

こんにちは、Mikaze です。


 如月も終わりに近づき、少しずつ春の兆しが見えてきました。

 筆者は先日まで日本列島の太平洋側を旅していたのですが、梅の花が仄かな香りを纏って花開いていました。可愛らしい梅色にも様々な種類があって、へえこんな花もあるのか〜と場所を転々としながら感傷に浸っています。


 さて、今回ご紹介するのは、福岡県です。

 福岡といえば、華やかな港町や都会的でスタイリッシュなイメージがありますよね。

 もちろん、そこもしっかりと抑えて周遊してきましたよ。

 しかしそれだけではなくて、あまり人が寄り付かないような山奥に、かつて修験道として厚い信仰のあった場所があります。

 筆者、その地である求菩提山に足を運んできました。


 きっと、オシャレな映えスポットを期待しているなら、それは的外れかもしれません。

 いうなれば緑が深く生い茂り、退廃的な場所です。そこには、精神を鍛えるため、あるいは心を清めるため、人々の恐れや不安を沈めるためと信仰された地がひっそりと存在していたのです。


 また、求菩提山の近隣にある千手観音堂についてもちょこっと紹介します。


 それでは、どうぞご覧ください。



. 求菩提山に入る


 求菩提山 (くぼてざん)というのは、福岡県豊前市の南下した場所にあり、標高782メートルの円錐形の山です。

 その基盤は凝灰岩や集塊岩から成り、山中には安山岩質の熔岩が散在しています。

 かつて活火山であったことをうかがわせます。

 古くから人びとの信仰を集めて来ましたが、噴火し噴煙をあげる火山に対する古代人の畏怖の念に求菩提山信仰の出発点があるのかも知れません。


 まず、周回コースの始まりはちょっと分かりにくいです。


 求菩提山駐車場に車を停めて、そこのトイレの脇にルートマップが掲げられています。

 入り口はその奥の、小さな看板が目印です。



                                    登山口の看板


 それでは、求菩提山周回コースを周っていきましょう。




 しばらく山道を進んでいくと、ユニークな表情をした石像が現れました。



                                      苔むした獅子の口


 これは、『獅子の口』


 この石像の頭部は、江戸時代の作と伝えられています。

 同様に獅子の口と呼ばれるものが、近隣の霊山には英彦山高住神社(田川郡香春町)にもあります。この獅子の口は、参道から護国寺(現在の中宮)に至る玄関口に位置しています。

 流れ出る水は上宮の巨石の地下に源を発し、伏流した水は獅子の口から禊場(獅子の滝)へと注がれています。

 入山者は境内へ向かう坂を登り始める前に、ここで口と手を清めて一息ついたとか。


 筆者、『千と千尋の神隠し』に登場した例の石像を思い出しました。

 そのくらい怪しげな雰囲気があります。

 ここから先に進むのがワクワクしますね。



                                       求菩提山の鳥居


 そして中宮に至る山道に現れたのは、同じく苔むした鳥居。

 世の中には、たいそう立派な神社が幾つもありますが、筆者はこのように、時代から取り残されたような雰囲気の神社が大好きです。

 もし神様がいるとしたら、このような佇まいの場所にいる気がするからです。




 両側に構えた狛犬は、天を高く見据えた威厳のある姿をしています。




 道中で大木の切り抜かれた道がありました。

 こんな道、初めて通りますね。


 そしてこの先には、かつて求菩提山修験道の中核を担った護国寺の跡が広がっています。

 今は明治元年(1868)に出された神仏分離令により、国玉神社と改められています。



                             鬼神社の入り口


 さて、中宮の鬼神社に着きました。

 ここから鬼の石段と呼ばれる険しい石段を登っていきます。


 筆者と石段の根性比べのようなものです。


 無事にたどり着けるでしょうか…




 登れば登るほど、さらに急で荒々しい石段になっていくじゃありませんか。


 求菩提山とその周辺には、鬼にまつわる伝説が多く残されています。

 その代表的な1つが鬼の石段です。


 言い伝えによると…


 夜な夜な山から下ってきて悪さをする鬼に村人達は困り果て、求菩提の権現様にどうにかしてくれるようにお願いしました。

 権現様は鬼達に、一晩で中宮から上宮まで石段を築くことができなければ、山から出て行くようにと命じたそうです。すると鬼はすさまじい勢いで石段を積んでいき、夜明け前には完成しそうでした。

 そこで権現様は一計を案じ、鶏の真似をして夜明けの時を告げたのです。

 これを聞いた鬼は約束を果たせなかったことを知って、一目散に逃げ出したということです。

 鬼といいカッパといい、一見恐そうなものたちは意外と間抜けなところがあるというか、ちょっと滑稽な姿で描かれているなと感じますね。




 もう終盤は、さすが鬼の石段と言わんばかりの荒れよう。

 これ、本当にいったいどうやって積み上げたのでしょうか?

 汗びっしょりで息も絶え絶えになり、超きついです。


 あと余談ですが、見たこともない大きな毛虫がいました(笑)




 明るい光が差し込み、ようやく社殿が見えてきました。



                                         鬼神社の社


 いやあ、やっと辿り着きました。

 ここまでメチャクチャ長かったです。

 なんの変哲も無い素朴な社殿なのですが、登り切ると非常に達成感があります。


 求菩提山ではが重要視されているようです。

 例えば、鬼ヶ洲(鬼塚)が求菩提山六峰の第二峰に数えられているほか、鬼の祠を祀った甕(かめ)の尾、鬼の手形石、鬼が被っていた穴石、鬼の割れ石、鬼石などの呼び名や鬼木という鬼にちなんだ地名が残っていたりします。

 鬼を退治する百手祭(ももてまつり)も知られています。

 まさに鬼づくしですね。




 ここから日も暮れてきそうなので足速に。

 胎蔵界護摩場跡を抜けると、大日窟、普賢窟と巨大な窟が続きます。



 空を見上げるほどの大きさです。

 高い!


                                           大日窟


                                    巨大な岩壁の下を通る


 山の信仰の歴史は、古く古墳時代にまで遡ると考えられています。


 近世の求菩提山文書では、継体天皇二十年(526)の猛覚魔ト仙による開山、大宝4年(704)の役行者の入山、養老4年(720)の行善による求菩提山護国寺の建立などを伝えています。

平安時代末期に入り、求菩提山は宇佐郡出身の天台宗の僧・頼厳によって再興され、そこに古来の山岳信仰をベースにした修験道が芽吹きました。

 以来、「一山五百坊」と言われ、天台宗求菩提山護国寺を中心に多くの山伏(修験者)たちが山内に住み、厳しい修行に挑み、英彦山と共に北部九州修験道の中心を担いました。

しかし、明治元年(1868)の神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈、さらには明治5年(1872)の修験道廃止令によって、求菩提修験道は終焉の時を迎えることになります。










 よく見ると、岩壁が多角的な形をしているのがおもしろいです。




                                        多聞窟の岩壁


 多聞窟にやってきました。


 求菩提山には、修験者(山伏)たちが厳しい修行に挑んだ場所として、窟(くつ)と呼ばれる洞穴のような岩陰がたくさんあります。

 その中心となるのが求菩提五窟で、記録によれば大日窟、普賢窟、多聞窟、吉祥窟、阿弥陀窟と呼ばれていたことが分かります。

 これらは金剛界、胎蔵界からなる両界曼荼羅の世界を現しているともいわれ、密教と深い関わりのあった修験道の世界を特徴づけています。


 多聞天の名前は、皆さんも聞いたことがありませんか?

 これは四天王のひとつで、北の方角を守護する役割を担っています。

 求菩提五窟の配置を見ると、その中心にあって大日窟と普賢窟を守る役割を持つと考えられています。



                                          阿弥陀窟


 修験者は、こうした窟に篭り自らを肉体の極限に曝(さら)すことによって法力を得、加持祈祷(かじきとう)を行なうことによって人々を救おうと考えたのでした。



                                            禊場


 求菩提五窟を抜けると、何やら水の流れる清らかな音がします。


 ここはかつて、獅子の滝と呼ばれていた場所で、禊場と考えられています。

 禊・祓いというのは、俗界から聖域へ足を踏み入れる時や神事・祭事・修行に入る際などに神聖な世界へ罪・穢れを持ち込まないように行う儀式です。

 したがって、禊場は聖界と俗界の境界近くの川や、海などの水場が選ばれます。


 今はここに石積みが見られるのですが、これは昭和初期に築かれたそうです。

 以前は豊富な水が流れ落ち、滝行の形で禊を行なっていたんだとか。


 ちなみに、求菩提山の下宮跡の脇を流れる秡川では、鬼神社の祭り「鬼会(おにえ)」の時に禊を行なっていたといわれています。

 他にも、山中の阿弥陀窟と普賢窟の近くには滝行を行なったと思われる比丘尼の滝、普賢の滝があります。


 求菩提山の周回は、途中から足速に行ったことを踏まえて2時間半かかりました。

 山奥は暗くなるのが早いので、のんびり散策したいなら午前中からスタートすることをお勧めします。






. 豊前の千手観音堂


                                         千手観音堂


 もうひとつ紹介したいのは、同じく豊前市の大字挾間という場所にある千手観音堂です。


 本尊は藤原期の千手観音立像で国指定の重要文化財になっています。

 岩洞窟の左右の岸壁からは2つ湧水が流れており、この湧水を飲むと乳がよく出ると言い伝えられています。そのため別名「乳の観音」といわれ、今も毎日多くの人がこの霊水を汲みに来ます。また、左右で味が違うと言われていて飲み比べをする人も多いです。


 しかし、筆者の目的は千手観音像と周囲に立ち並ぶ石像を見ることでした。




 社の奥に、木陰に隠れるようにして石像が並んでいます。



                                        立ち並ぶ石像


 長い年月をかけて苔に覆われた石像を見ると、1つ1つの造りが非常に繊細でよくできています。


 石像の前にはビンに鮮やかな花が供えられており、今でも地元の人に大切にされていることが分かります。



 穏やかな表情、首元の装飾や足の指先まで丁寧に彫られており、とても美しいです。

 そこに苔が柔らかに纏い、風情が漂っています。







 境内には、不動明王坐像と千手観音立像についての看板があります。

 それによると、千手観音堂は、もとは岩屋山泉水寺といったらしいです。

 本尊は千手観音(重要文化財)不動明王と資料にあり、二尊がこの寺の中心的な尊像であったことが伺えます。どちらも同時期の平安時代に造られたそうです。


 この二尊は肉眼で、実際に現地でご覧になってみてください。






まとめ:修験道の道



 いかがでしたか。


 今回は自然の空気に触れるだけではなく、山を信仰した人々の遺産に触れながら森を歩いてみました。壮大な自然のなかでは、彼らは何も語らず、諭すこともなく、ただ静寂に包まれた空間がそこにあります。その場所では清らかな心がふつふつと湧き上がっていたのではないでしょうか。


 ちなみに、求菩提山については、求菩提資料館に貴重な資料や遺品が残されています。

 この資料館は実に興味深く、山岳信仰の成り立ちや修験者の書いた文章、呪符や薬草など山伏と関わりの深かったものまで展示されていました。ぜひ登山とセットで立ち寄ることをおすすめします。


 筆者、厳しい修行とまではいかなくとも、これを機に精神を鍛えるための何かをしたいと考えるようになりました。

 例えば、筆を手にとって写経をしたり、木刀を素振りしてみたり……


 果たしてこの修行の成果が出る時はいつかやってくるでしょうか。



 それでは、またお会いしましょう。





参考HP:

豊前市 求菩提山と修験道

じゃらん 千手観音堂

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